昭和44年11月24日 朝の御理解
                              中村良一
御理解 第98節
「心は、神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」



平生心の大切さを教えて頂いておるのですね。平生心、静かで落ち着いておると。なんでもない時には、心は、落ち着いておるようですけれども、ちょっとした事にでも、心に、いわば、波風が立つ。ね。波風が立っておる心では、お伺いも出来んだけではなくて、やはり、おかげも頂きにくい。本当に、心が何時も、平生心でおれるための修行。心がやるらかである事のための修行が大事かという事が分かります。
心は、神信心の定規じゃによってと、素晴らしい表現だと思いますね。本当に、自分の心は、自分の信心の、いわゆる、バロメーターである。どんなに信心が巧者になっても、詳しくなっても、自分の心を見れば、自分の信心の程度が分かる。我ながら、我ながら、嬉しい。我ながら、自分で自分の心が拝みたい。ね。いつも、そういう様な心の状態を頂きたい。ところが、本当に、自分の様な汚い心の者があるだろうかと思うような心を、自分の心の中に、発見する事がある。何のための信心か、何のための教えを頂いておるのか、神様を拝ませて頂いておるのかと。これが、信心しておる者の心じゃろうかと思うように、自分ならが、愛想が尽きるような自分に気付くことがある。ね。気付いただけでも仕方がいないから、そういう心に、本気で取り組ませて貰うて、ね。そういう汚い心を、清めて行こうというのが、信心なんですね。段々、教えを頂いておりますおかげで、ものの見方、思い方が、段々、変わって行って、こういうような、まぁいわば、問題が、このような安らかな心で受けられたり、見られたりするという事は、自分ながら、有難いと思うこともある。
自分が、親切にならせてもらうと、これではもう、有難い。自分が、親切な心を人に使わせて頂いておる時は、自分ながら、有難いと思う。ところが、反対に、親切ではない心。意地の悪い心、ね。根性の悪い、いわば、心とか。そういう、例えば、心では、神様へ、そういう心を向けても、ね。お伺いも出来ん、おかげもそれでは受けられない。心の中に、神心が生まれて、その神心で、人が思えたり、または、神心で受けられたり、ね。この、人の心と言うものが、有難く受けられない。人の親切が、有難く受けられないという様な人がありますよね。人の心が、親切で受けられない。ね。いわゆる、意固地なと言うですね。本当に、人の親切を、まともに有難く、こう受けられる人は、私は、幸せだと思う。人に、親切を施すことも有難いが、また、親切を親切として、受けられる心も有難い。
昨日は、東京から、分厚い手紙が参りました。軽いんです。なんだろうかと思うて開けて見たら、あの、小さい、このくらいのマッチの空箱が、三つ入っとった。空箱ですから、こうもう、びっちゃげております。ところが、ははぁとすぐ思わせて頂いたんですけれども。そのマッチの、そのレッテルが、歌舞伎俳優の絵が描いてあった。先生が好きそうな、マッチが、中に入っているわけでもない。けれども、先生が好きそうなマッチが手に入ったから、送りますというて書いてあった。空箱が三つ。もう、びっちゃげてしもうて、いわば、まるで見る影もなくなってしまっておる。私は、本当に、それが、その親切が嬉しかったですね。それが、何ていう訳でもないけれども、ね。なくしてはいけない。折角の親切で送ってくれておるからと思って、裏の、私の部屋のタンスの、色んなものを飾るところがありますから、あそこにこう、綺麗に飾らせて頂いた。ね。本当にそれは、私が、そんな、幾らお芝居が好きだからと言うて、そういう物を、自分で入手したからと言うて、おそらく、大事にはしは致しません。それこそ、もう、紙屑籠の中に入れるようなものです。けれども、やはり、その人の親切を思うと、むげに捨てられない。しばらくは、あれを見て、はぁこの絵は良いなぁとは思わなくてもです。それを見るたんべんに、その人の親切を感じたいというような気がするんですよね。それは、私、私のその、飾り戸のところへ入れさせて頂いて、飾り物にもならない。人が見たら、何の取り込んだものを入れてあるだろうかと思う様な物なのだけれども、それを送った人の親切がです。私の心を、すぐ、そのまま、こんなもん、送ってきてからと言うて、紙屑籠に入れるには忍びない思いがするのですね。そういうような時に、自分で、有難いと思います。お互いの心と言うものが、どういう時に、平生を欠いておるか。平気でない、ね。落ち着いて、静かに願えと仰るけれども。落ち着いて静かに願えない。
自分が、自分で、自分の心を拝みたいような時、ね。まぁこれは、最高ですから、自分の心のなかに、全てを合掌する心と言うものが、信心によって、段々、出来てきよる。そういう稽古を、段々、させていただく訳ですね。ところが、やはり、どうしても、落ち着けない時がある。その、落ち着けないという事の向こうにはですね。やはり、落ち着けないという原因があるのです。ね。ですから、やっぱ、その原因を突き止めて、そういう落ち着きの、落ち着かん、落ち着きを取り戻すための、やはり、心掛け、精進が必要ですね。やはり、段々、信心が分からせて貰うて、すぐ信念が強くなって、確信を持つというか、信念を持ってということは、平生心を作る、第一のもの。自分が自信を持っておるという事は、大変、強いことである。
例えば、歌を歌えと言われても、自信のない人には、歌を歌えと言うても、その人は、益々上がってしまう。平生心を失ってしまう。けれどもやはり、自分で自分の、その歌に、自信を持っておる人、ね。そういう人は、やはりそれを、落ち着いて、それをやる事が出来る。例えば、声の良いとか悪いとかじゃない。やはり、自分がその、稽古をしておって、きちっと歌えるなら、それは、平気で、やはり、ほんなら一つ、やりましょうかと言うて、歌うことが出来る様なもんです。ね。だから、やはり、そういう一つの、自信を持っておるから、平気でおれるという場合もあります。そすと、やはりあの、自分の、平生心を失ったり、落ち着かなかったりする、その原因が、稽古をしていないとか、しているとかという事じゃなくて、やはり、自分の心の中に、その、やましいものと言うか、そういう物がありますと、平生心を欠きます。そんな時がある。ね。
ですからその、平生心じゃないと、おかげは受けられないという事は、たとえ、こんな、私は、例があるんですけれども。私は、商売をさせてもらっている時ですよね。まぁだあの、反物、着物類が、衣類が統制されておる時分ですから。いわゆる、闇という訳です。私が、当時その、繊維物のやみ商売をやっておった時分ですから、それが、扱うてはいけない物を、扱っておったもんですからね。それがその、まぁ、最近、あそこの市場に、そういう品物が沢山出る。その、どこから出よるかという事を、まぁ、経済の、その刑事さんがかぎつけてね。段々、調べてきてから、まぁその、私の所を、突き止めた訳ですよね。それからあの、警察に、呼びが来ましたから、参りました。はぁ、それこそ、誘導尋問ですよね。ところが、幾ら平生をを装うとしても、実際、自分の家に、沢山、こずんであるんですからね。隠してはありますけれども、店に出してはないけれども、こずんであるですから、家宅捜索でも受けたら、もう、一遍にばれにゃん。そっでお前、平気な顔してから、その言いよりますけれどもね。どうしても、心はやっぱり、落ち着きません。はぁ向こうは、そういうところを、まぁ感じ取る訳でしょうね。実にその、辛辣な調べ方です。とうとう、私が、あんまり、言い張って、自分な、そんな物は扱っていないと、私が言い張るもんですから、、もう、向こうもですね。私をその、苛立たせよるという、やっぱ、手をとられる訳ですね。今度はもう、しばらくその、帰れとも言わずに、その、私を、待たせたっきり、食事に行くと、こう何とか言うて、また、後で調べるという訳なんです。そらもう、三十分待っても、一時間待っても、お茶も、誰も汲み手はありませんしね、そういうところですから。それから、私、もう、こげん待つごたるならば、いっちょ、久留米の警察から、善導寺の親教会にですね。お参りしてから、お届けをしてこうと思うて、それからも、誰もこん、私一人ですから。もう、そこを抜け出てから、自転車で、はぁもう、一生懸命、久留米から、善導寺まで、またお願いに行きました。それから、お届けをさせていただいて、それからまた、警察にやってきたんです。そしたら、ようやくその、警察の、私を調べる人がやってきたんですよ。ところが、私が、善導寺に行ってる間に来てるらしいんですね。さっきから、私は、何遍も来とったが、あんた、おらじゃったが、どげんしとったかち言う訳なんです。実は、私は、金光様の信心するけんで、あーたがね、その、私に濡れ絹を着せようとしよるから、そこが、いっちょ、本当に分かるように、神様にお願いに行ったち。私が、こう言うたらですね。それからまぁ色々、その問答しておるのに、またその、私を、いらいらさせるつもりでしょうね。また、それから一時間ぐらい。一時間も、一時間半もあったかも知れません。その、私を、待たせる訳ですね。それから、私は、その調べられるところの、机の前で、もう誰もいない。その人が、どこそこへ行ってしまわれたもんですから。そこで、何時の間にか、眠ってしもうとる訳ですね。そして、もう、ひとしこ休んだと思った頃、肩を誰かが叩きよりますから、目を覚ましたら、また、何とかかんとか、居眠りしてからち言いますもん。けれどもですね、私は、言うんですよ。私が、あなたがね、言うごたる悪い事をしとるならあーた、この、警察来てから、眠れる筈は中じゃないですかち。あーたが、幾ら言いなさったっちゃ、私は、そげなもんな扱うとらんからち言うちから。やっぱ、おかげ受けとるとですよね。もう、それっきりでした。また、用があったら、呼ぶから来てくれと言われましたが、それっきりでしたがね。そういう時に、やはり、神様へ向って、お取次ぎを頂いて、こう言うことは良いことじゃないですよ。実際は、悪い事しとったばってん、隠しとったです。けども、そういう時でもですね。例えばその、警察の机の上で眠れるというくらいなお繰り合わせを頂いた時に、私の心の中に平生心が生まれた訳です。その平生心が、もう次のおかげに繋がっておる。だから、これは、悪い事をしても、平生心でおれれるような人は、やっぱ、おかげを受けます。ね。だからこら、決してその、悪い事をせろと言う訳じゃないですけれども。それはまぁ、言うなればですね。その、どぶの水のようなもんです。ね。それがこう、静まっておる時には、やはり、どぶの水でも、その、平生にしておる時には、上から手をこう持っていきゃ、手が映る様にですね。どぶの水でも、やっぱり、映るとは映るです。ね。
だから、その、悪い事でもですね。度胸のある人は、平気でしておれる訳です。ところが、その平気でしておれるという、その心がですね。神様へ通ずるものがあると。どんなに、清らかな心を持っておりましても、ね。それこそ、製品に真似するといったような、いわば、その、清廉潔白な人であってもです。心が、何時も、波立っておってり、苛立っておったりしたんではです。折角、映っておる影が、崩れてしまうです。なるほど、神様へ対して、受ける心が、おかげにもならないし、または、お伺いをしても、そういう心では、駄目だという様な事が分かります。ね。これはまぁ、平生心と言うことだけを説明しましたけれども、信心というのは、それが、清らかであって、しかも、平生である事を願わしてもらう。ね。そこに、神様のご信用が頂けれる信心が受けられる訳なんです。ね。
まぁ、えらいお話になってしまいましたけれども、とにかく、私共の心の中に、心を騒がせないものを、やっぱり、頂くという事が、一番大事です。ね。ですから、そういう物を、私共が、取り除いていくことを、改まるとこう申します。本気で改まりに精進をしておる時、本気で清まろう清まろうと精進しておる時。心は、何時も、清らかに、しかも、平生心のおかげを保つことが出来ます。ところが、そういう精進を怠っておりますと、ね。なんでもない時には、なんでもない様ですけれども。そういう時に、何かが起こってきたら、もう、心が穏やかではありません。その、穏やかではないという心が、おかげを受けられない事になるのです。私共でも、良くそれがあります。はぁもう、今のように心が乱れておったり、落ち着きがない時に、大事なお願いでもあったら、どうするだろうかと思うような事があります。ね。
いわゆる、腹を立てましたり、自分の心のなかに、汚い心が動いたり致しますと。こういう時に、例えば、そのお取次ぎを願われたら、どうしようかと思うような時がある。ね。ですから、平生心になることを、一生懸命努める。ね。ほんなら、平生、落ち着こう落ち着こうと言うて、落ち着けるものじゃない。そこに、やはり、神様に、お慶び頂けるような、精進なり、ね。修行なりをさせて頂くという事によって、その心は、落ち着くのです。ね。また、心から、真剣にお詫びをする心と。詫びておるうちに、神様が、こう合点してくださるような時がある。感じる。幾ら詫びても詫びても、神様が許してくださらないような感じの時がある。ね。ですから、その、お詫びをさせて頂いてもです。神様が、もう許してくださったと気持ちが出来た時が平生心。許されていない自分を感ずる時には、まだ、平生ではない。勿論、神様に、お伺いなども出来ない。もう、今頃は、本当に滅多にないですけれども、以前は、時々、それがあったんです。いろんなお伺いがある時に、今日は駄目だから、またの時に言うてくれと言うような時があったんです。心が平生でない時には、ね。
私達が、言うてはならない事を言うたり、してはならない事をしたり、そういう様な事が、平生心を欠く場合が多いのです。ね。そういう時に、私は、何時でしたか、いわゆる、私の心の中に、平生心がないのです。で、神様に、お詫びをしても、お詫びをしても、お詫びが叶わんといったようなっ感じです。ね。それでもう、一生懸命、お詫びさせて頂きよりましたらね。お詫びではいけんと、御礼を申し上げよという事を頂いた事があったです。
御神願に、あの、何て言うですかね。蛤という貝があるです。蛤という貝が、中の身を、こう出してね。まぁ言うなら、感じが、でれっとして感じるですね、あの貝が、身を片方にこう出しておる、ちょっとつつくと、ちょろっと、中へ縮んでしまう。そういうような状態を御神願に頂くんです。もう、詫びても詫びても、神様が許してくださらないような、御礼をいう気になれとこう言う。ね。私の心の中に、いわば、お粗末な心が起こって、ね。どうしても、心が神様へ向けても、神様が、返事をして下さらないような状態。そういう時にですね、御礼を申し上げるという事は、どういう事かと言うと、これは、言うならば、生きておる印だと言うこと。私が生きておる印なんだ。ね。人間と言うものは、何時も、そこを、張り詰めたような訳には参りません。ね。やはり、その、ゴムの十手じゃないけれども、ばぁーっとこう、引っ張っておる時ばかりじゃありません。やっぱり、伸びたり縮んだりがあります。ね。もう、様々な時が、私共の心の中にある。信心しとって、どうしてこんなに、だらしのない心が起こるじゃろうかという時もある。言うならば、蛤が、だらっと、こう身を、外へ出しておるような時じゃないでしょうかね。けれども、ぽっとつつかれたら、じゃっと中へ縮んでしまうというものも、やはり、生きておる印である。ね。ですから、その事は、詫びなければならないですけれども、そういう、わびな、ければならないような心の状態が起きておるという事はですよ。やはり、生きておる印として、御礼を申し上げる。そういう気になったら、それこそ、ハマグリが、ちゃっとこう中へ身を引き締めるようなものが、私の心に感じられた。それから、改めて、お詫びをする気にならせて頂く。そのお詫びが、御礼からお詫びに移っていく。そこにです、私の心は、また、平生心どころか、その神様の、そういう深い思いやりと言うかね。人間を思うてくださる、その心に感動して、感激して、有難いという心にならせて頂いた事があるです。ね。ですから、私共がですね。本当にもう、自分と言うものが、どうしてこんなに汚い人間じゃろうかと。汚い心が、次々と雲のように湧いてくる。そういう時には、そういう心では、平生心になれません。けれども、そういう時にです。生きておる印と、それを思うて、ね。生きておるからこそ、こういう思いも、心の中に湧いて来るんだと気付かせて頂いて、生きておる事に対する御礼を、先ず、申させて頂いておるうちにです、ね。有難くならせて頂き、そこから、詫びて、いよいよ、心の中に平生心を頂くことが出来る。ね。私共は、怖くもなからなければ、ご無礼でもなってない様な事を、ご無礼と思うたりしておる様な事もあります。ね。そして、心は、平生でない、または、そのくらいな事は、心配は要らない筈なのにです。心が落ち着かないで、心配をしておる事があります。ね。そういう時に、例えば、お取次ぎを頂いてです、腹が決まるというか、さっきの私の、警察で調べられた時の事じゃないですけれども、ね。久留米から善導寺まで、追いかけんでも参るという様な気持ちで、おかげを頂いて、帰ってくる時には、もう、調べられる警察官の前で、居眠りが出来るくらいに、心が落ち着いておる。それが、もう、おかげを頂く元になっておる様にですね。心配せんでもええ、落ち着け落ち着けと言われて、落ち着けれる、その心を、そんなに、平生でない、その心にならんでも済むような時にです。心が落ち着かない様な事がある。
私は、先日、大変な、その人にとっては、大変な事なんですけれども、お取次ぎさせていただいた時に、ね。安心が行くようにお願いしましょうという事であった。あくる日参って見えても、やっぱり、安心が行くようにお願いしましょうという事であった。ね。如何に、そう言われても、けれども、安心が行かない。どういう事だろうかと。結局、私が、信用されていないからであり、または、その人は、私を信じてはいないからである、そら、大変な、難儀な問題ですけれども、まぁ親先生が、ね。安心が出来るようにお願いをしてくださるのです。そう仰ったから、心が、すぐに、安心が出来ると言うくらいなところまでは、私と皆さんの場合でも、信心が進められておかなければいけないという事を、そん時感じました。ね。心配要らんがのと言われても、やっぱり心配だ。親先生が、心配要らんと言われたから、ね。心配な事だけれども、それを、心配せんですむだけに、この、信じ信じられるといったような中を育てておきたい。ね。
ある、これも難儀な、もう難儀な問題で、大変な事になりそうになった時です。私は、もう、夜中のことですから、眠っておりました。まぁ大変な事が起こったと言うて、お願いに来ました。私は、そん時に、あの、寝たまま、あるお知らせを頂きましたから、もう寝たまま、お取次ぎさせて頂いた。ね。それは心配要らん。それから、その人が、後で話すことにですね。先生が、寝ながら、例えば、寝ながら心配は要らんと仰った時にですね、心の中に、その場で、安心が出来たという訳です。ね。先生が、やはり、まぁ不安であるならば、とても、寝ながらなんかお取次ぎが出来る訳はない。そら、その場で起きるなり、着物を着替えるなり、御神前に進んで、御祈念でもして下さるというのではなくてから、寝ながら、お取次ぎをしていただいた。寝ながら、お取次ぎを、先生が、寝ながら心配要らんと仰ったからと言うて、安心が出来たと言う。確かにそうですね。それは、私と、その人の中に、信じ信じられるものが育っておったから、それが出来た、出来るんです。ね。どんなに、私が、御結界で、心配は要らんと言うても、先生は、心配は要らんと言われるけれども、心配でたまらんと言うたんでは、こりゃ、おかげは、やっぱり受けにくいですから、ね。お取次ぎを頂いたら、その場で安心が出来たと。親先生のお言葉を頂いたら、そのまま、心の中に、平生心を頂くことが出来たというくらいなおかげをね、お互い、取次ぎを願う者、取次ぎをさせて頂く者の間に、信じあう心と言うものが、育ってこなければいけないという事を思います。ね。何時、どげなこつの起こってくるやら分からんのですから。ね。同時に、日常生活の上においても、そうです。私共の心の中に、どうしても落ち着かない時がある。心は信心の定規なのですから。そういう落ち着かない心でおってはいけないと。そこで、御神前に額づくとか、ね。自分の心のなかの、何が、こういう心を、平生心を欠いておるかという様な、その元を追求して、例えば、場合には、こう言う汚い心が、平生心を欠いておると分かったら、その汚い心を、清めることに努めさせてもらう。ね。どうしても、平生心が、いわば、汚い心が、雲のように起きて、神様にでも、向けられない様な心の時にです。ね。けれども、やはり、これとてもです、死んでりゃ、こう言うこことが起こるはずはない。生きておる印なのだから、生きておる事を、先ず、お礼を申し上げさせて頂いておるという事がです、ね。平生心を取り戻し、それから、お詫びが出来、お詫びが叶うたら、いよいよ今度は、有り難うなるという心で過すことが出来るんです。
確かに、心は、神信心の定規ですから、自分で自分の心が拝みたいような時もあるかと思うと、自分で、自分の心に妥協を催すような自分である事でもある。それが、何でもない時には、何でもないけれども、そういう時に、何かがあると、もう平生という事を失うのです。ですから、私共が、何時も、平生心を保たせて頂けるための精進が、何時もなされておかなければならない。何時、どの様な事が起こってくるか分からん、ね。まさかの時には、お取次ぎを頂いてお願いをする。お取次ぎを頂いたら、安心が出来たという様なところまで、私と皆さんとの間の中にです、ね。信じ信じられるものが交流する。そういう信心を、日頃、身に着けておかなければならない。という事になりますですね。どうぞ。